
判例
令和4年(ネ)第153号 国家賠償等、損害賠償請求控訴事件
令和6年8月30日 名古屋高等裁判所民事第2部判決
(原審・名古屋地方裁判所平成30年(ワ)第3020号[甲事件]、同第3021号[乙事件])
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/382/093382_hanrei.pdf
建設現場に渦巻く黒い影
名古屋の閑静な住宅街に突如現れた巨大なマンション建設現場。
その工事現場で起きた、一見ありふれた暴行事件の背後に、驚くべき真相が隠されていた。
事件の発端は、マンション建設に反対する住民Aさんと、現場責任者Bとの些細なトラブルだった。
Bは、Aさんが工事車両の通行を妨害したと警察に通報。
なんとAさんは現行犯逮捕され、勾留、起訴までされてしまったのだ。
Bの証言は具体的で、Aさんに両手のひらで胸を突き飛ばされ、ダンプカーに接触して背中を打撲したと主張。
目撃者の警備員までもが、Bの証言を裏付ける供述をしていた。
しかし、事件現場には“沈黙の目撃者”が存在していた。それは、防犯カメラだ。

裁判所は、この防犯カメラの映像を詳細に分析。
すると、Bの証言とは大きく異なる真実が浮かび上がってきたのだ。
映像からは、Aさんが腕組みをしており、Bの胸を突き飛ばすような動作は確認できなかった。
むしろ、B自身がAさんに執拗に近づき、身体を接触させている様子が映っていたのだ。
さらに、Bがダンプカーに接触したとされる瞬間も、映像では接触した部位がBの証言と異なっていた。
Bが提出した診断書の内容にも、不可解な点が見つかった。
裁判所は、Bの供述の変遷や防犯カメラの映像、そして科学鑑定の結果を総合的に判断。
BがAさんを陥れるために、虚偽の被害申告、被害状況の再現、そして供述を行ったと認定した。
Bの目的は、一体何だったのか?
裁判所は、Bが以前にも別の住民から突き飛ばされたことがあると供述していることなどから、以前から反対運動を妨害するために、被害を偽装する機会を窺っていた可能性も示唆している。
この判決は、私たちに「真実」とは何かを問いかける。
目撃証言や診断書でさえ、ねつ造される可能性がある現代社会において、私たちはどのようにして真実にたどり着けば良いのだろうか?
そして、公権力は、どのようにして私たちの権利を守ってくれるのだろうか?
事件は解決したが、私たちの心には、黒い影が残っている。それは、この事件が突きつけた、現代社会の闇に対する不安と、真実への渇望なのかもしれない。
事件はこれで終わりではない
今回の判決は、まるで精巧な仕掛けが施された密室のような事件だ。
被告Bは、原告Aを陥れるために周到に準備をし、自らを被害者に見せかけることで、彼を逮捕、勾留、起訴へと追い込んだ。
だが、緻密に積み重ねられたはずの偽装工作は、防犯カメラの映像という動かぬ証拠と科学的鑑定の前に脆くも崩れ去った。
裁判所は、被告Bの悪質な企てを見抜き、原告Aの無罪を明らかにした。
しかし、事件はこれで終わりではない。

原告Aは、無罪を勝ち取った後も、警察が彼の指紋、DNA型、顔写真のデータをデータベースに保管し続けていることに苦悩していた。
それはまるで、密室から解放された後も、見えない鎖で繋がれているようなものだ。
この判決は、被告Bの偽装工作を暴くだけでなく、現代社会における新たな「密室」の存在を浮き彫りにした。
それは、公権力によって管理される個人情報という名の密室だ。

我々は、犯罪捜査の名の下に、自らのプライバシーを差し出すことを余儀なくされている。
だが、その情報は、いったんデータベースに登録されると、まるで密室に閉じ込められたように、容易に取り戻すことができない。
今回の判決は、この見えない密室から抜け出すための、一筋の光となるかもしれない。
裁判所は、個人情報、特にDNA型や指紋情報などは、極めて秘匿性が高く、慎重に取り扱われるべきものであると指摘した。
そして、これらの情報が無罪確定後もデータベースに保存され続けることは、個人のプライバシー権を侵害するものであると断じた。

これは、単なる個人の権利の問題ではない。
公権力による情報管理の在り方そのものを問う、重大な問題だ。
我々は、安全と引き換えに、どこまでプライバシーを犠牲にするべきなのか。
そして、公権力は、我々のプライバシーをどこまで守る責任があるのか。
この判決は、私たちに、新たな謎を突きつけている。
分析
第1部 判決の概要
- 主文 (1-19)
- 本件控訴事件において、原告の控訴を一部認め、被告Bおよび被告会社に対して連帯して220万円の損害賠償を命じる。
- 原告の残りの控訴および被告国の控訴を棄却する。
- 訴訟費用の負担割合を定める。
- 仮執行宣言。
- 控訴の趣旨 (20-29)
- 原告は、原判決の敗訴部分を取り消し、被告国に対して携帯電話データの抹消と550万円の損害賠償を求める。また、被告県と被告B・被告会社に対してもそれぞれ550万円と1100万円の損害賠償を求める。
- 被告国は原判決の敗訴部分を取り消し、原告の請求を棄却する。
第2部 事案の概要
- 事案の背景 (30-48)
- 原告は、近隣に建設中のマンションに反対運動を行っていたところ、被告会社の従業員である被告Bに暴行を加えたとして逮捕・勾留され、起訴されたが、最終的に無罪判決が確定した。
- 原告は、違法な逮捕・勾留・起訴によって精神的苦痛を受けたとして、国と県に損害賠償請求 (甲事件) を、虚偽の被害申告をした被告Bと使用者責任を負う被告会社に損害賠償請求 (乙事件) を、それぞれ提起した。
- 原告はまた、国に対して、捜査の過程で取得された指紋、DNA型、顔写真、携帯電話データの抹消も求めた。
- 原判決の内容 (49-58)
- 原判決は、甲事件における国と県への損害賠償請求、乙事件における被告Bと被告会社への損害賠償請求をいずれも棄却した。
- データ抹消請求については、指紋、DNA型、顔写真の抹消を認め、携帯電話データの抹消は棄却した。
第3部 当裁判所の判断
- 前提事実の確認と補正 (59-213)
- 原判決における事実認定の一部を補正し、証拠の内容をより詳細に検討する。
- 特に、防犯カメラ映像、鑑定結果、関係者らの供述内容などを詳細に分析し、原判決の事実認定を補完する。
- 乙事件 (争点5及び6) についての判断 (214-301)
- 争点5「被告Bが原告に突き飛ばされたかのように装い、虚偽供述をしたか」について、防犯カメラ映像や鑑定結果などを総合的に判断し、被告Bが虚偽の被害申告を行い、原告を陥れるために虚偽の供述をしたと認定する。
- 争点6「原告の損害と損害額」について、被告Bの不法行為により原告が逮捕・勾留され、精神的苦痛を受けたことを認め、被告Bに損害賠償責任を負わせ、使用者責任として被告会社にも賠償責任を負わせる。
- 甲事件(争点1〜4)についての判断 (302-422)
- 争点1「現行犯逮捕の違法性」について、警察官が被告Bらの供述を信用し、防犯カメラ映像と矛盾しないと判断したことは不十分ながらもやむを得ないと判断する。
- 争点2「勾留請求等および公訴提起の違法性」について、検察官が被告Bらの虚偽供述を見破れなかったこと、防犯カメラ映像を科学的に分析できなかったことは、時間的制約や通常の能力の範囲内では困難であったとして、違法性を否定する。
- 争点4「データ抹消請求の可否」について、原判決の判断を補正し、一審被告国の補充主張に対する判断を付加する。具体的には、DNA型等のデータの性質、諸外国における立法例などを参照し、国民はこれらをみだりに取得・保有・利用されない自由を有すると認める。
- 一審被告国の補充主張に対する判断 (423-643)
- 自己情報コントロール権を認めた最高裁判例がないことを理由に、国民の基本的人権を軽視する一審被告国の主張を批判する。
- DNA型等のデータは秘匿性が高く、捜査機関による保有・利用は国民の私生活の平穏を害する具体的な危険があると指摘する。
- 諸外国では立法による適正な規制措置が採られているのに対し、我が国では法的整備が全くされていないことを問題視する。
- 住基ネット事件判決は、DNA型等よりも要保護性の低い個人情報に関するものであり、本件に適用できないと反論する。
- DNA型等のデータは、犯罪捜査の目的でデータベース化されている以上、国民の自由な行動を萎縮させる効果をもたらす可能性が高く、憲法13条によって保障されるべき自由を侵害すると判断する。
第4部 結論
- 乙事件については、原告の控訴を一部認め、被告Bおよび被告会社に対して連帯して220万円の損害賠償を命じる。
- 甲事件については、原告の指紋、DNA型、顔写真の抹消請求を認め、原告の残りの請求および被告国の控訴を棄却する。
補足
本判決文は、個人情報の保護と公権力による犯罪捜査の在り方について、重要な問題提起を含んでいます。特に、DNA型等のデータの取扱いに関する法的整備の必要性を強く訴えており、今後の法改正や社会全体の議論に大きな影響を与える可能性があります。