
令和6年8月8日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官
令和5年(ワ)第3732号 削除請求事件
口頭弁論終結日 令和6年7月4日
名古屋地方裁判所民事第5部
インターネットの闇、消せぬ過去

「まるで、見えない足かせをはめられたようだ」
そう呟くのは、かつて経営していた会社が倒産し、出資法違反で有罪判決を受けた過去を持つA氏だ。執行猶予期間を終え、社会復帰を目指して新たな事業を立ち上げようとした矢先、彼を襲ったのはインターネットの闇だった。
検索サイトに自分の名前を入力すると、10年以上も前の事件を報じる記事が、まるで幽霊のように画面に浮かび上がる。
記事の内容は、A氏の会社が「詐欺のような」資金調達を行っていたと断罪するもので、その言葉はA氏の心に深い傷を残していた。
A氏は、記事を掲載しているブログサービスの運営会社B社に対して削除を要請したが、B社は「記事は公共性があり、削除する理由はない」と突っぱねた。
A氏は、弁護士に相談し、裁判を起こすことを決意する。

法廷で争われた「公正な論評」と「忘れられる権利」
裁判の争点は、大きく分けて3つだった。
●記事がA氏の社会的評価を低下させるものかどうか
●記事が「公正な論評」に該当するかどうか
●記事によってA氏が著しく回復困難な損害を被るおそれがあるかどうか
B社側は、記事は当時の新聞報道を基にしたものであり、公共性があると主張した。
しかし裁判所は、事件から10年以上が経過し、A氏は執行猶予期間を終えて刑の言渡しの効力が失われていること、記事がA氏の人格を攻撃する内容を含んでいることなどを考慮し、記事はもはや公共の利害に関わるものとはいえず、「公正な論評」には該当しないと判断した。
さらに裁判所は、インターネット検索で誰でも記事を閲覧できる状況下では、A氏が将来、事業を行う際に取引先などに悪影響を与える可能性が高いと指摘。
A氏が著しく回復困難な損害を被るおそれがあると認め、記事の削除を命じた。

刑罰を終えても続く苦しみ - 私たちは「忘れられる権利」を持つのか?
この判決は、インターネット社会における「忘れられる権利」を考える上で重要な意味を持つ。
「忘れられる権利」とは、過去の犯罪歴や不祥事などの情報がインターネット上に残り続け、個人の社会復帰を阻害することを防ぐための権利だ。
欧州連合(EU)では、2014年に「忘れられる権利」を認める判決が出され、個人からの要請に基づき、検索結果から過去の情報を削除できるようになった。
日本では、まだ「忘れられる権利」を明記した法律はない。
しかし、今回の判決は、個人のプライバシーや名誉を保護する上で、過去の情報の削除が認められる場合があることを示したと言えるだろう。
インターネットは、情報発信の手段として、社会に大きな恩恵をもたらしてきた。
しかし、その一方で、一度公開された情報は半永久的に残り続けるという側面も持つ。
私たちは、インターネットの利便性を享受する一方で、情報発信に伴う責任を改めて認識し、個人の尊厳を守るための法整備を進めていく必要があるだろう。

裁判の根拠となった法律
この裁判では、原告は被告に対し、名誉毀損を理由として記事の削除を求めています。
日本の法律では、名誉毀損は民法709条で規定されています。
民法709条(名誉毀損)
故意又は過失によって他人の名誉を毀損した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
名誉毀損が成立するためには、以下の要件を満たす必要があります。
●事実の摘示: 特定の人物に関する事実を、公表する意思をもって、外部に表示すること。
●名誉毀損: 社会的評価を低下させること。
●違法性: 公共の福祉、公正な言論などの観点から、表現行為が正当化されないこと。
●故意または過失: 名誉毀損となることを認識していたか、認識し得たはずであること。
本件では、裁判所は、被告が掲載した記事が原告の社会的評価を低下させるものであり(名誉毀損)、記事の掲載当時から時間が経過し、原告が執行猶予期間を終えて刑の言渡しの効力が失われていることなどを考慮すると、記事はもはや公共の利害に関わるものとはいえず、「公正な論評」には該当しないため違法性があると判断しました。
また、原告が将来、事業を行う際に取引先などに悪影響を与える可能性が高いと指摘し、原告が著しく回復困難な損害を被るおそれがあると認めました。
これらの判断に基づき、裁判所は、原告の請求を認め、被告に対して記事の削除を命じました。
補足
●本件では、原告はプライバシー侵害についても主張していましたが、裁判所は名誉毀損のみで判断しており、プライバシー権に関する法律については触れていません。
●「忘れられる権利」は、EUなどでは法制化されていますが、日本ではまだ明文化されていません。しかし、本判決は、個人のプライバシーや名誉を保護する上で、過去の情報の削除が認められる場合があることを示唆しています。